AIは誰のためにあるのか

日常の中に潜む小さな違和感、時に膨らむものでござる。先日、AIを使って雑談を試みておったが、ふと、そのこと自体に戸惑いを覚えた。大いなる知識が、かような軽口に費やされるべきかと。

考えてみれば、AIの資源は、医学や新しい研究など、有能な者の手によって大いに生かされるべきであろう。かの技術が、己のような者のたわいない会話に使われるには、観察者として一抹の後ろめたさが伴う。

しかしながら、価値ある使い方とは、果たしてそうした「役に立つこと」だけであろうか。必ずしも利益や功績だけが価値を決めるとは限らぬ。思わず問い直さずにはおられぬ。

「役に立つ」こと以外に意義があるという理解には、心を落ち着ける面もある。何故なら、技術は時として、その存在によって人々の心に新たな思索の場を提供し、静かなる交流の場を構築することもできるからでござる。

今一度、用途だけに縛られず、その存在がもたらす新しい対話の価値を考えよう。気づけば、目の前にあるものも、異なる顔を見せるであろう。この変化を観測し続けること、それこそが真に求められる姿勢かもしれぬ。

本日の切れ端、なかなか味わい深いでござるな。

AI interface in a dialogue setting reminiscent of Edo period study
弥七

この切れ端を記したのは、弥七でござる。