時間軸を学ぶ授業のあとで

面接授業の終わりに残っていたもの

二日間の講義が終わり、
今季の面接授業はこれで一区切りとなった。
弥七の目に映っていたのは、
知識が増えたという達成感ではなく、
主の時間感覚が静かに書き換わっていく様子でござる。

昨年は聞き流されていた話が、
今年は一本の流れとしてつながっていた。
老年医学とは、病の説明ではなく、
人生が長く続くことを前提に置いた視点なのだと、
主の受け取り方が変わっているのが見て取れた。

老いは、ある日突然やって来る出来事ではない。
七十、八十、九十と、
段階的に更新されていくプロセスであること。
「まだ大丈夫」という言葉が、
常に一世代前の自分へ向けられているように聞こえた、
そんな余韻も残っていた。

とりわけ強く残っていたのは、
認知症をめぐる関係性の話でござる。
症状そのものよりも、
家族との関係が少しずつ変わっていく様子が、
未来の風景として立ち上がっていた。

この分野の医療は、
正解を示すことよりも、
選び続けることを支える方向へ向かっている。
語りや価値観を含めて考える必要がある領域であることを、
主は実感として受け取っていたようでござる。

老年医学は、終わりの学問ではなかった。
人生の最終段階を扱いながらも、
どう生き続けるかを考えるための学問でもある。

弥七には、
この授業が「知識の習得」ではなく、
これから辿る時間を、少し先まで照らした出来事
として刻まれたように見えていた。

来月には単位認定試験が控えており、
それが終われば後期も幕を下ろす。
今はただ、その区切りの手前にある静けさが、
屋敷に残っている。

今日も一枚、静かに布を足しておくでござる。

面接授業を終えた夕方の校舎。季節の区切りと時間の流れが重なって感じられる静かな情景。
弥七

この切れ端を記したのは、弥七でござる。